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第8章の9:第2次大戦はどう賄われたか?(その3)

『マネーの魔術史』(新潮選書)が刊行されます(2019年5月20日予定)。
「第8章 戦争とマネー」を9回に分けて全文公開します。

実質戦費がどの程度だったかは、複雑な問題 
 日華事変と太平洋戦争の戦費の総額は、『昭和財政史』によれば、7559億円とされている。
 しかし、この中で、「臨時事件費」が5623億円であり、7559億円の約4分の3もの比重を占めている。この額は、ほぼ外資金庫の損失額に対応している。これは、中国や南方の占領地で激しいインフレーションが起きたにもかかわらず、為替レートを据え置いたために、書類上、占領地での名目支出が膨張したことによって「調整」が必要になり、帳簿上計上されたものだ。
 もし現地での物価上昇に合わせて為替レートを調整すれば、このような調整は不要だったろう。そして、軍事費は、臨時軍事特別会計の支出として計上され、その額は、外資金庫の損失額より遥かに少ない額になっていたはずである。
 その意味で言えば、前記の7559億円という額は、かなり「水ぶくれ」したものだと考えることができる。実質的な軍事費は、もっと少ないはずなのである。
『昭和財政史』も、インフレの問題を考慮すると、「各年度の数字を合計しただけでは、ほとんど無意味である」と言っている。ただし、「物価の変動による修正は極めて困難であり、また拠るべき正確な物価指数もえられない」としている。
 そして、「昭和九―十一年平均の貨幣価値を基準として換算した戦費総額は、約二千五百二十一億円となる」と述べているだけだ。
 これでは、前記の外資金庫の問題に答えたことにはならない。
 もっとも、仮に為替レートの変更がなされた場合の計算をしてみたところで、それは、「日本の国家予算ベースでの負担がどうだったかを示すのみであり、現地の人々が負った負担を正確に表わしてはいない」という議論もできるだろう。
 このように、第2次大戦の戦費が実質的にどの程度だったのかという問題は、かなり複雑な論点を含んでいるのである。したがって、見かけの数字を取り上げて、「国家予算の何年分」などと言うのは、きわめてミスリーディングだ。
 すでに述べたように、日本は軍票の回収をしなかった。そして、このことは、日本人にとって心理的に負い目になっている。これは、戦後処理問題を長引かせた一つの原因でもある。
 しかし、軍票保有者の負担の大部分は、軍票が回収されなかったことによってではなく、インフレーションでその実質価値が著しく下落したことによって生じたのだ。
 インフレでその価値が著しく減じたから、額面通りの返却をしたところで、実質的には日本政府に大きな負担にならなかったのではないかと思われる。そう考えれば、軍票は全額回収したほうがよかったのではないかとも言える。もちろん、回収をしたところで、日本軍が占領地に大きな負担を強いたという事実に変わりはないのだが。
 日本国内において発行された戦時国債についても、保有者にとっての実質的な負担は、インフレーションによってその実質価値が著しく下落したことによって生じた。
 国内では、戦時中の物価は統制によって抑えられていた。激しいインフレは、戦後に生じた。
 1947年から、資源を石炭と鉄鋼を中心とする基幹産業に重点的に配分し、生産設備を復旧させて、産業の生産力を回復させようとする「傾斜生産方式」が実施された。
 この政策は、一般会計から支出される補助金である価格差補給金と、復興金融金庫の融資によって支えられた。融資の財源とされた復興金融債(復金債)の発行額は、当時の全国の銀行貸出額の4分の1近くにまで達し、その7割が日銀引き受けとされた。
 このため、通貨供給量が過剰となり、インフレが起きた。年率80%を超えるインフレが発生し、1934~1936年の物価指数を1とした場合、1949年の物価は約220となった。1945年を1とすると、1949年には約70となった。
 これにより、戦時国債の価値は大きく下落した。それによって、日本政府は莫大な残高となっていた戦時国債の重圧から逃れることができたのだ。

◇第2次世界大戦の教訓は、いまの日本で忘れられた
 マネーはあらゆる経済活動の背後にある。特に戦時においては、極めて重要な役割を果たす。マネーを増発することによって戦費を調達できるからだ。負担はインフレーションという形で生じるので、政府は返却する必要はない。
 これまで見てきたように、ナポレオン戦争、アメリカ独立戦争、南北戦争を通じて、戦費調達におけるマネーの役割が高まった。
 19世紀に、イギリスがリードして世界的な金本位制が確立され、政府が安易にマネーに頼ることはできなくなった。しかし、金本位制は、第1次世界大戦で停止された。大戦後に復活が試みられたが、成功しなかった。
 それ以降、中央銀行の紙幣は不兌換紙幣になった。こうして、政府は、マネーの発行によって、いかなることもできるようになってしまったのである。
 日本の第2次世界大戦における戦費の大部分も、マネーを発行することで調達された。
 
日本国内においては戦時国債、占領地においては軍票が増発され、これによって資源が軍事目的に徴発された。軍票は中央銀行券ではないが、実質的には同じものだ。
 また日本の戦後復興も、事実上の日銀券である復興金融債で資金を調達する傾斜生産方式によって行なわれた。
「マネー増発」という手段を用いなければ、戦争の遂行はできなかったし、戦後復興もできなかったろう。
 中央銀行の最も重要な役割は、こうしたことを阻止し、貨幣価値を維持することだ。しかし、戦争の遂行や復興は、貨幣価値の安定より重要な目的だと考えられたのである。
 復興の完了後、それまでの経験を踏まえて、政府の財源調達はマネーによらないことが基本方針とされた。これを確保するため、「財政法」第5条によって、日本銀行が国債を引き受けることが禁止された。
 日本の高度成長は、そうした経済環境の中で実現したのだ。

 しかし、こうしたことは、すべて忘れ去られてしまった。
 2013年に日本銀行は異次元金融緩和を開始した。これによって、日銀引き受けと実質的に同じことが行なわれるようになったのだ。
 日銀による国債購入量が飛躍的に増やされたが、それだけではない。償還までの期間が長い国債を買えるように、方針転換がなされたのである。それまでは、償還までの期間が短い国債だけを買っていた。だから、国債を引き受けた銀行は、それを直ちに日銀に売ることはできなかった。ところが、異次元緩和以降、右から左へと売れるようになった。これは、事実上、日銀引き受けと同じものだ。だから、財政法第5条の脱法行為である。
 異次元金融緩和政策は、マクロ経済への影響という点では、効果がなかった。また、「消費者物価指数の対前年上昇率を2%にする」という目標も達成できなかった。日銀当座預金が増えただけで、経済に流通するマネーストックがほとんど増えなかったからだ。
 しかし、全く無意味だったかと言えば、そうではない。国の負担を軽減するという点では、大きな効果があったのだ。
 財政・金融的な観点から言うと、国と日銀を一体と考えてよい。そこで、これを「財政通貨当局」と呼ぶことにしよう。
 日銀が国債を買い取って国債の保有者が民間主体(例えば民間の銀行)から日銀に変われば、国債は国と日銀との貸し借りになってしまって、財政通貨当局の中では相殺される。形式的に国債の利払いや償還はなされるが、それは国にとって負担にならないのである。
 こうなっても、財政通貨当局が民間部門に対して負債を負っていることに変わりはない。しかし、その形態は、「国債」という形から、「日銀当座預金」という形に変わったのだ。
 当座預金は要求払い預金であるから、返却の要求がある。しかし、これは財政通貨当局にとって負担にならない。なぜなら、日銀券を発行すれば返却できるからだ。日銀券は、日銀の負債ではあるが、返却する必要がない。利払いもない。
 つまり、財政通貨当局の負債は、「民間銀行保有の国債」という形から「日銀当座預金」という形に変わり、さらに「日銀券」という形に変わりうるのだ。こうなれば、「国債の貨幣化」になる。これによって物価が上昇すれば、民間に残っている国債残高についても、負債の実質的な負担は減少する。
 現在の日本では、財政通貨当局の負債は日銀当座預金という形をとっており、まだ日銀券になっていない。だから、国債の貨幣化にはなっていない。しかし、負担にならなくなった点では同じだ。
 これによって財政規律が緩んだ。税負担を増やしたり、支出を削ったりする必要がなくなったからだ。社会保障は戦費と同じくらいに大きな負担だ。しかも、終わることがない。それが際限もなく膨張することの負担は、どのような形で将来の日本国民の上に落ちてくるのだろうか?

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