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『円安と補助金で自壊する日本』:全文公開 第3章の4

『円安と補助金で自壊する日本』 (ビジネス社)が9月26日に刊行されました。
これは、第3章の4全文公開です。

4 「貯蓄から投資へ」がもたらすキャピタルフライトの悪夢 

唐突に飛び出した「資産所得倍増プラン」

 岸田文雄首相は、2022年5月5日、外遊先のロンドンで「資産所得倍増プラン」を突然表明した。
 日本の個人金融資産約2000兆円のうち半分以上が預金や現金で保有されていると指摘し、これらを投資に向かわせるため、少額投資非課税制度(NISA)の抜本的な改革や、個人型確定拠出年金(iDeCo)の加入対象年齢を現行の64歳以下から65歳以上に引き上げることを検討するとした。つまり、「貯蓄から投資へ」が必要だというのだ。そして、22年末に「資産所得倍増プラン」を策定するという。
 これは、いくつかの点で誠に不思議な政策だ。
 まず誰の目にも明白なのは、これが富裕層への優遇策であることだ。振り返って見ると、21年9月の自民党総裁選で、岸田氏は「令和版所得倍増」を掲げた。そして、金融所得課税の引き上げを主張した。就任時には、「格差是正と分配」を強調した。
 しかし、就任早々に日経平均株価が大幅下落するという「岸田ショック」に見舞われたため、金融所得課税の強化案は姿を消した。その後の衆院選の公約や所信表明演説では、所得倍増という言葉は影を潜めてきた。
 そして、「新しい資本主義」とはいったい何であるかの検討が続けられた。その結果出てきたのが、富裕層の優遇策だ。
 格差は是正されるのでなく拡大する。迷走を続けたあげく、結局は、当初とは向きがまったく逆になってしまった。

リスクを無視してはいけない

「貯蓄から投資へ」とは、いま初めて言われることではない。これまで何度も繰り返し言われてきたことだ。
 この基本にあるのは、「現在の日本の家計の資産運用は不合理な形態だから、これを変えるべきだ」という発想だ。 
 預金の利率がほぼゼロであるのに対して、株式や投資信託の平均的な収益率はもっと高い。だから、預金を取り崩して株式投資に回せば、家計が豊かになるというわけだ。
 ところが、この考えには、大きな問題がある。それは収益率(正確にいうと、平均的な収益率である「期待収益率」)だけを見て、リスク(収益率の変動)を見ていないことだ。
 銀行預金は収益率は低いが、元本は保証されている。つまり、安全な資産だ。それに対して株式や投資信託は、高い収益率を得られる場合もあるが、そういかない場合もある。あるいは、元本が減ってしまうこともある。つまり、リスクが高い。

安全な資産を望むのが間違いとはいえない

「貯蓄から投資へ」は、「期待収益率が高い資産を持て」とアドバイスしているのだが、これは危険きわまりないアドバイスだ。
 なぜなら、どのような資産運用が望ましいかは、期待収益率だけでは判断できないからだ。期待収益率とともに、リスクを考える必要がある。
 これはファイナンス理論のもっとも基本的な命題だ。「貯蓄から投資」という不思議なスローガンは、ファイナンス理論を無視したものだといわざるを得ない。
 一般に、期待収益率が高い資産は、リスクも高い。預金の収益率が低いのは、リスクがない安全な資産だからだ。とりわけ元本保証がある点が重要だ。
 どのような資産構成が望ましいかは、人によって違う。退職後の人生のために貯蓄をしている人の場合は、何よりもまず元本が減らないことが重要だ。多くの人々は、その点を重視して、預金の収益率が低いことを我慢している。これは、一概に間違いとはいえない。
 退職後に向けての貯蓄に限らず、多くの人にとって、元本が保証されていることはきわめて重要な条件だ。生活に必要な額を大きく超える貯蓄を持っているのであれば、その一部をリスク資産に回すという選択肢はあるだろう。
 しかし、必要最低限の貯蓄しか持っていない場合は、そうした余裕はない。それらの人たちが資産の大部分を銀行預金で保有しているのは、愚かな行動とはいえない。
 日本では物価がほとんど上昇しなかったから、名目資産である銀行預金の形で資産を保有しても、価値を維持することができた。だから、安全志向の資産保有が正しい選択だった場合が多かったのだ。株価の動向を見ながら売買の手続きを行う必要もないし、手数料や運用のためのさまざまなコストも必要ない。
 こうしたことを考えれば、現在の日本の家計は、日本経済の現状に照らして合理的な資産運用をしている可能性がある。「貯蓄から投資へ」と、これまでも何度も言われてきたにもかかわらず、銀行預金が減らないのは、これが合理的な資産運用法だからではないか?
 なお、現在インフレが進行中だが、現在のアメリカの状況を見れば明らかなように、それに応じて株価が上昇しているわけではない。むしろ、インフレ対策の金利引き上げで株価が下落している局面もある。 つまり、インフレになっても株式投資が実質資産価値を維持できるとは限らない。
 また、国全体の立場から見ても、預金保有が望ましくないとはいえない。なぜなら、人々の資産が銀行預金の形態をとっている場合にも、その資産は銀行で眠っているわけではなく、銀行を経由して企業への貸し出しなどに使われているからだ。銀行預金は、決して無駄になっているわけではない。

「円安」という新しいリスク要因が発生

 ところで最近、預金の安全性に関して新しい問題が発生してしまった。それは、急激な円安が進行したことによるものだ。しかも今回の円安は、これまでのように一時的なものではなく、今後も円安が続くのではないかとの懸念も持たれている。
 このような環境では、円建ての資産を保有していることが合理的かどうかについて、疑問が生じる。
 銀行預金は安全だと述べた。しかし、それは円で評価した場合のことだ。ドルで評価すれば、円建ての預金は、2022年の春から数カ月間のうちに、大幅に価値を失ったことになる。預金だけでなく、日本国内の株式や不動産に対する投資も、ドル評価では大きく価値を失った。
 単にドル建て価値が低下したというだけではない。物価が高騰しているので、預金の場合にも、実質価値は低下した。
 こうした状況下で、外貨建て資産への関心が急速に高まっている。新聞の読者相談欄にも相談が寄せられるほど、多くの人がこの問題に関心を持ち始めた。
「貯蓄から投資へ」を国民に勧める政府としては、もちろん、この状況に無関心であってよいはずはない。「期待収益率の高さこそ重要(リスクは無視してよい)」との立場からすれば、「外貨建て資産への投資を考えよ」とアドバイスせざるを得ないはずである。
 しかし、それは、以下に述べるように、政府が自らの首を絞め、日本を奈落の底に突き落とすことに他ならないのだ。

リスク資産では、すでにキャピタルフライト?

 外資建てへの移行は、株式や投資信託などについては、すでに生じていると見ることができる。日本経済新聞(2022年6月6日)によれば、国内の投資信託を経由した海外株への投資額は、21年に8兆3000億円となり、日本株への投資額(280億円)の300倍近くになった。
 日本株の下落率は欧米諸国に比べると低い。21年末から22年6月中旬までの欧米株の下落率が17~18%程度であるのに対して、日本株は10%程度だ。しかし、それは自国通貨で評価した場合のことだ。
 ドルで評価すれば、日本の場合には円の下落率が加わるので、下落率はずっと高くなる。だから、収益に敏感な投資家が株式などのリスク資産を、円建てからドル建てに転換するのは、ごく自然な動きだ。この状態が続けば、日本株は売られるので、株価は下落する。

預金でキャピタルフライトが起きるか?

 円安がさらに進めば、動きは一般の家計をも巻き込む可能性がある。そして、一般の家計が、保有する円建て資産を売却して、ドルなどの強い通貨建ての資産に乗り換える「キャピタルフライト(資金の海外逃避)」が生じる可能性がある。
 もっと問題なのは、円建ての銀行預金をとり崩して、ドル建て預金に変えるという動きが生じることだ。
 これまで、銀行預金は安全資産と考えられていた。しかし、あまりに円安が進むと、それに疑問が生じる。仮に預金をドル建てで持っていたとして、残高を円換算すれば、2022年の数カ月だけで価値が大きく増加したわけであり、2%程度の物価上昇率など、何も気にすることはないだろう。
 そこで、家計が保有する銀行預金を取り崩して、ドルなどの強い通貨建ての預金に乗り換える動きが生じる可能性がある。
 もちろん、銀行預金には決済や送金という重要な役割があるから、すべての預金が外貨建てに移動することは考えにくい。こうした移動は、主として定期預金についてのものだろう。
 ただ、預金の総額はきわめて大きい。現在、家計が保有する金融資産は約2000兆円で、その約半分が銀行預金だ。だから、その一部が動いただけで、巨額の資産が円建てからドル建てに移動することになる。これによってさらに円安が進む。
 問題なのは、額だけではない。これは、人々の自国通貨への不信任の表明であり、深刻な危機だ。

円安を強く望む階層が生まれる

 前項で述べたように、外貨シフトの見通しは不透明だ。ただし、起こりうる事態を予測しておくことは重要だ。そこで、以下では、かなりの規模での外貨シフトが生じたときに、何が起こるかを考えることにしよう。
 外国の株式や外貨預金を持つ人は、円安になると国内での購買力が増加することになる。したがって、いくらでも円安になることを望む。そして、そのような圧力を政策に加えるだろう。
 外国株式や外貨預金を持つのは、かなりの額の金融資産を持つ人であり、政治力も強いだろうから、政策に大きな影響力を持つだろう。だから、実際に円安が進む可能性がある。
 これまでも企業は円安を望んでいたのだから、大きな変化ではないといわれるもしれない。しかし、企業は、円安になれば原材料価格の高騰という問題にも直面する。また、先に述べた日本株からの逃避が起こるという問題もある。だから、企業が望んでいたのは、ほどほどの円安だ。
 しかし、外貨建て資産保有者にはこうした問題がないから、いくらでも円安を望む。そして、円高になることを決して容認しない。

キャピタルフライトがもたらす地獄

 自国通貨安が進行するために国民が外貨資産に逃避するという現象は、「キャピタルフライト(資本逃避)」と呼ばれる。
 沈没する船からネズミが逃げ出すのと同じ現象だ(タイタニック号の出航の際、錨のロープを伝わって多数のネズミが陸地に逃げたそうだ)。それは、自国通貨に対する国民の不信任の表明であり、政府にとってはもっとも恐ろしい事態である。
 キャピタルフライトは、円資産を売ってドルなどの外貨資産を買う動きだから、円安を加速させる。それがキャピタルフライトをさらに増加させる。このような自己増殖的なメカニズムが進行する。
 大規模なキャピタルライトが生じれば、日本国内の投資に用いられるべき貴重な原資が外国に流出してしまう。このため、国内金利が上がる。そして、日本政府や日本の企業が国内で投資するために資金調達をすることは、著しく難しくなる。
 日本の金利が上がれば円高になるような気がするが、キャピタルフライトが引き起こす円安による減価のほうが大きければ、円高にはならず、円安になる。
 これはまさに国を破綻させる大問題なのである。
 しかし、「貯蓄から投資へ」を標ひょう榜ぼうした日本政府としては、論理的に見て、国民に資本逃避を思いとどまるよう説得することはできないはずだ。
 キャピタルフライトによって円安がさらに進行した場合、輸入物価が高騰して、国内物価が高騰する可能性が強い。いま生じている物価高騰など比較にならないほど激しいインフレが発生するだろう。
 円安が進めば、iPhoneなどは高くて一般の日本人には買えなくなるだろう。買えなくなるのはiPhoneだけではない。日本では生産できない最先端の高性能半導体も高くて買えなくなる。だから、それを使った製品も生産できなくなる。
 それだけではない。仮にドル建ての原油価格が落ち着いたとしても、円建ての原油価格は、これまでよりはずっと高いものになる。だから、電気料金も高くなったままだ。そして、ますます高くなる。
しかし、円安が続く限りは、外貨建て資産を持つ人は、そうした状況を涼しい目で見ていられる。円換算した資産残高の増加が、物価上昇など簡単にカバーしてくれるからだ。
 反対に、円建ての資産を保有し続けていた人々の購買力は低下する。そして、生活は困窮する。

資産を外貨建てにして、巨額の損失を被る危険も

 では、こうした事態に備えて、いま急いでドル建て資産への転換をはかるべきだろうか?
 そうとはいえない。
 なぜなら、右で述べたような大規模なキャピタルフライトは、現時点においては生じていないからだ(つまり、日本国民は、「貯蓄から投資へ」という政府のアドバイスを真面目に受け取っていないということになる)。将来も起こるかどうかはわからない。
 それだけではない。何らかの理由により、為替レートの動向が反転し、円高が進むかもしれない。例えば、アメリカの金利が低下するかもしれない(実際、2022年6月下旬からアメリカの長期金利が顕著に低下し、7月下旬には、円高への揺り戻しが見られた)。あるいは、日銀が金融政策を転換し、金利の上昇を認めるかもしれない。
 右で述べたように大規模なキャピタルフライトが生じてからでは、金利が上昇しても円安は止められないだろうが、現在の状況で金利が十分に上昇すれば、円安は止まり、円高に転じる。2022年の5月にスイスが金利引き上げに踏み切った直後、スイスフランが増価に転じたことを見ても、そうなる可能性は高い。
 また、ここまで円安が進んでしまったいまドル建て預金を始めたとしても、将来いまより円高になり、為替差損を被る可能性がある。円高になってから円に戻せば、元本割れになる事態は、十分ありうる。
 実際、外貨建て資産は、きわめてリスキーだ。企業の場合は円高に振れても、その期間の利益が減るだけだ。しかし、外貨建てで資産を持っている人は、円高になればストックとしての資産残高が減少してしまう。
 日本に住んでいる以上、大部分の支出は円建てでなされるから、円換算の資産額が減ることは致命的だ。特に高齢者の場合には、ほとんどの支出が円建てだろうから、この影響はきわめて大きい。
 したがって、時々刻々の為替レートの変動にびくびくしながら毎日を過ごさなければならなくなる。穏やかな老後生活など望むべくもない。
 円高になれば、いま慌てて外貨建て預金に資産を移した人は、多大な損失を被るだろう。老後のためにこれまで貯めてきた資産を、一挙に失うといった事態もありうるだろう。
 だから、外貨建て資産を持つ人がますます豊かになり、それを持たない人がますます困窮するということではない。そうなる可能性もあるが、逆の可能性もある。
 重要なことは、円資産を持ち続けても、外貨資産に転換しても、何らかの意味でのリスクにさらされるのが避けられなくなったということだ。

「貯蓄から投資へ」ではなく、円の価値の安定化を図れ

 今後の為替レートがどのように推移するのかは、誰にもわからない。だから、右に述べたシナリオのどれが現実のものになるかも、わからない。
 はっきりしているのは、日銀が金融政策の転換を拒み続け、他方で国民が政府のいう「貯蓄から投資へ」にしたがうようになれば、将来の不確実性がきわめて大きなものになるということだ。
 為替レートが安定化しない限り、これから逃れるすべはない。これが、信頼を失った通貨がもたらす悪夢のシナリオだ。このような世界の到来は、何とか阻止したい。
 しかし、現在の状況では、これが現実のものとなる可能性を決して否定できない。
 多くの日本人は、こうした経済を望まないだろう。多くの人は、為替レートにも株価にも一切振り回されずに過ごせる生活を望むだろう。銀行預金を持っているだけで、安心して老後生活が迎えられるような社会を望むだろう。 
 そうした社会を実現するためには、安定した為替レートと安定した物価を実現することが必要だ。政府は、「貯蓄から投資へ」と言うのではなく、円の価値の安定化をこそ目指すべきだ。



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