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『日本の税は不公平』全文公開:    第1章の5

『日本の税は不公平』(PHP新書)が3月27日に刊行されました。
これは、第1章の5全文公開です。

5 税への不満が革命を引き起こす。ただし、日本は例外 

税への不満が、マグナ=カルタと名誉革命の原因

 歴史上、「市民革命」といわれるものの多くが、税に対する不満を契機として勃発した。その最初のものが、1215年、ジョン王(在位:1199〜1216年)の時代に結ばれたイングランドの「マグナ=カルタ」である(Magna Carta は、「大憲章」を意味するラテン語)。
 ジョン王は、イングランド王ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの息子で、十字軍の戦いで勇名を馳せ、「獅子心王(Lionheart)」と呼ばれたリチャード1世の弟だ[8]。「失地王(Lackland)」と呼ばれた。
 ジョン王の治世では、重税が課され、封建的な義務が強化された。ジョン王は、対仏戦争や十字軍遠征での戦争資金を調達するために、貴族や教会に対して過度な税金を課し、その徴収方法も厳しかった。これに対して、貴族や教会、そして一般市民からの不満が高まり、強い反対が起こった。
 反抗的な貴族たちは、ジョン王に対して武力をもって立ち上がり、テムズ河にある小島ラニーミードの草原で、王にマグナ=カルタに署名させた。この文書には、王権の制限と法の支配を確立する多くの条項が含まれていた。ジョン王は、執務室に戻ると怒り狂い、興奮のあまり床に倒れたといわれる。
 税に関連する重要な条項としては、特に以下の点が挙げられる。
 第一に、特別税の制限。王が特別な税を課す際には、貴族の同意が必要とされた。これは、王権による無制限の税徴収を防ぐ「恣意的課税禁止の原則」を定めているので、「租税法律主義」の始まりだとされる。第二に、法的手続きの保証。すべての自由民は、適切な法的手続きなしに逮捕や財産の没収を受けないという保証がなされた。これは、税金や罰金に関連する不当な処罰を制限するものだった。
 マグナ=カルタは、もともとは封建貴族の権利を確認するためのものだが、近代になってから、国民の自由と議会の権利を擁護したものと解釈され、後述する「権利の請願」や「権利の章典」とともに、イギリス憲法の基礎を定める三大法典とされるようになった。
 ピューリタン革命(1642〜1651年)や名誉革命の背後にも、税の問題があった。1603年にエリザベス1世が死去し、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世として、イングランド・スコットランド共通王となった。彼は王権神授説の熱烈な信奉者で、議会を無視して王権の拡大をはかり、議会の同意なしに税を徴収しようとした。
 次のチャールズ1世の治世の初期、特に1629年から1640年までの「個人統治」期間中、チャールズ1世は議会を解散し、自らの権力を強化しようとした。この時期に彼は、伝統的な税収入源に加えて、さまざまな非伝統的手段(例えば「造船税」など)を用いて資金を調達した。
 これらの税徴収方法は、特にピューリタン(清教徒)を含む中産階級や地方のジェントリ(郷紳)からの強い反発を招いた。彼らは、王が議会の同意なしに税を課すことに反対し、これを憲法違反と見なした。
 1640年、チャールズ1世はスコットランドとの戦争資金を調達するために再び議会を召集したが、これは「長期議会」として知られるようになり、王と議会の間の対立はさらに激化した。議会は王の権力を制限する一連の改革を要求し、1642年にはイングランド内戦へと発展した。
 クロムウェルを指導者とする議会派は国王軍を破り、国王に死刑を宣告。1644年、チャールズ1世は斧で首をはねられ、イギリスは共和国となった(ピューリタン革命)。
 1688年、議会はオランダ総督ウィレム3世を国王として招いた。彼は英語が分からなかったため国政には口を出さず、議会は翌年「権利の章典」を法律として制定した。この革命は、流血が伴わなかったため、「名誉革命」とよばれる。

フランス革命:税をめぐる利害対立が革命に

 フランス革命(1789〜799年)の重要な原因として、税をめぐる利害対立がある。革命以前のフランスでは、人口の99%を占めていた農民と商人からなる第三身分が重税に苦しんでいた。税制は非効率で不公平であり、貴族や聖職者は税の免除特権を享受していた。
 それに加え、18世紀後半のフランスは、深刻な財政危機に直面していた。フランス王国の財政は、アメリカ独立戦争への介入や王室の贅沢な宮廷生活によって、破綻の瀬戸際にあった。このため、第三身分への課税だけでは立ち行かなくなってきた。
 1789年、ルイ16世は、財政危機の解決策として、免税特権を持つ第一、第二身分の聖職者や貴族に課税することを決断し、約175年ぶりに三部会を召集した。
 三部会は、フランスの伝統的な身分制議会で、貴族、聖職者、そして第三身分の三つの身分で構成されていた。
 しかし、特権身分から大反対をうけて立ち往生した。そして、第三身分は、投票方法に不満を持ち、自らを「国民議会」と宣言して、憲法制定を求めた。
 ヴェルサイユ宮殿に付属する室内球戯場に集まり、憲法を制定すること、国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しないことを誓った。これが「球戯場の誓い」である。この動きは、バスティーユ牢獄の襲撃(1789年7月14日)という象徴的な出来事により、革命へと発展した。
 革命はさらに進行し、1791年にはフランス初の成文憲法が制定され、立憲君主制が確立された。しかし、内外の反革命勢力との対立は激化し、1792年には第一共和政が開始され、ルイ16世は処刑された。
 フランス革命は、税をめぐる利害対立が社会的・政治的変革の触媒となった典型例だ。不公平な税制と社会的不平等が国民の間の広範な不満を引き起こし、それが革命的変化を促進したのだ。
 課税問題をめぐって国王と特権身分が対立するという当初の構造が、国王と特権身分が団結して国民議会に対立するという構造に変化した。その背景には、「聖職者や貴族は税負担義務から免れているのに、なぜ平民だけが重税を負担するのか」という強い不満があった。事態が革命に発展したのは、税のためなのである。
 また、塩税への不満も強かったといわれる。塩は生活必需品なので、昔から多くの国で課税の対象になっていたが、17~18世紀のフランスでも悪名高かった税だ。税負担が重いだけでなく、一定額を超える税収が取立てを請け負う徴収官の収入になったためだ。
「税収請負制度」は、歴史的に多くの国で見られた税収の徴収方法の一つで、請負人は、より多くの利益を得るために、過剰な税金を徴収する傾向があった。このため、民衆に対する過重な負担をもたらし、社会的不満の原因となっていた。
「質量保存の法則」を発見したアントワーヌ・ラボアジエ(1743〜1794)は、「近代化学の父」と呼ばれる化学者だが、同時に徴税請負人でもあった。徴税請負で稼いだ金で、実験道具や薬剤などを買ったと言われる。フランス革命が起こると反民衆的右派として捕らえられ、ギロチンにかけられた。
「一部の特権階級が税負担を免れていた」というのは、日本の国会議員の収入の大部分が非課税であるのとそっくりだ。
 違いは、日本では、革命が起こらないことである。

課税への反対が、アメリカの独立につながる

「ボストン茶会事件」は、1773年12月16日にアメリカのマサチューセッツ州ボストンで起こった、アメリカ独立戦争の重要な前兆となった政治的抗議行動だ。この事件は、イギリス政府と北米植民地の間の緊張関係を高め、最終的にアメリカ合衆国の独立につながった。
 アメリカは、当初はイギリス本国からは比較的自由な立場にあり、自治を認められていた。これを変えたのが、英仏戦争による出費だ。
 国庫が窮乏したイギリスは、1760年代から1770年代にかけて、植民地に対して一連の税を導入した。砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)が制定された。
 これらの税に対して、植民地側は「代表なくして課税なし(No taxation without representation:代表が出ていないところで決定された税金は納める理由がない)」というスローガンのもとに団結して反対運動を展開した。
 印紙法は翌年に廃止されたが、紙やガラスに対する輸入税が新設された。
 1773年に成立した茶法は、東インド会社に茶販売の独占権を与え、イギリス本国での関税を免じ、植民地での消費に課税しようとするものだった。これは、植民地の商人たちを脅かすものだった。
 1773年に起きたボストン茶会事件は、茶法に対する直接的な抗議行動として発生した。イギリス東インド会社の船がボストン港に到着し、茶を降ろそうとしたとき、サミュエル・アダムズが組織した急進派「自由の息子たち」60名のグループが、行動に出た。彼らはモホーク族のインディアンに扮して港に停泊していた船に乗り込み、「ジョージ3世のお茶会だ」と叫びながら、積荷となっていた茶箱342箱を海に投げ捨てた。
 この事件は、「ボストン茶会(Boston Tea Party)事件」と呼ばれる。優雅な名称だが、ボストンの街でのんびりとお茶会を催したわけではないのである。
 この行動は、イギリス政府による厳しい報復措置を招いた。イギリスはボストン港を封鎖し、ボストンのあるマサチューセッツから自治権を取り上げ、イギリス軍が駐屯するなどの、いわゆる「耐え難い法」を制定した。
 このため、本国と植民地の対立がますます深まった。そして、フィラデルフィアなどの港でも同様の事件が起こり、イギリスからの独立を求める気運が急速に高まった。
 1774年、12の植民地の代表がフィラデルフィアに集まって第1回大陸会議(Continental Congress)を開催、ボストン港の閉鎖やマサチューセッツの自治権剝奪などに抗議を行なった。そして、1776年7月4日、大陸会議は独立宣言を公布したのである。
 このように、税に対する人々の不満が、革命をもたらした。
 仮に日本人がいまの裏金問題をうやむやに終わらせたとしたら、将来、歴史の教科書には次のように書かれることになるだろう。
「革命の多くは税に対する国民の不満から生じた。ただし、2024年における日本は例外であった」


[8] ヘンリー2世は、プランタジネット朝(あるいはアンジュー朝)初代のイングランド王国の国王。イングランドからフランスのピレネー山脈に至る広大な領土を支配した。
余談だが、ヘンリー2世やリチャード1世の日常用語はフランス語で、英語は理解出来なかった。


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