星暁雄のブロックチェーン界隈見て歩き

第13回

新型コロナ後の世界、そしてブロックチェーンと人権

(Image: Shutterstock.com)

新型コロナウイルスの流行は私たちに大きな問いを突きつけている。これからの世界をどうするのか? その答によって、私たちの今後の数十年が大きく変わる。

ひとつの解は、こうだ。「私たちには、人々を平等にエンパワーメント(支援)する仕組みと国際的な連帯が必要である」。社会の中の脆弱な人々に充分な支援をしないまま放置すれば、豊かな人々にとっても感染症のリスクが高まる。そして国際的な共同作業で感染症への対抗手段を編み出して共有することが必要だ。ここでパブリックブロックチェーンと匿名化技術は、インターネットの上で信頼できる形で個人のエンパワーメントと国際的な連帯を実現するツールとなるはずだ。

ハラリ論考に見る2つの対立軸

ここでお断りしたいことがある。今回の記事では短期的な予測やサバイバル術に類する話題は出てこない。私たちの目の前にある技術によって、私たち全員の長期的な課題を支援できる可能性についての話をしたい。

この記事を書いているのは2020年3月末である。中国で始まった新型コロナウイルスの流行は今や世界中に広がり、全世界での症例数は63万件以上、死者は約3万人にのぼる(WHOの2020年3月29日時点の統計による)。しかも数字は指数関数的なカーブで増加を続けている。欧米先進国を含めて市民の外出禁止措置を含む緊急事態が広がっている。日本でも感染者の爆発的な増加の懸念が高く、予断を許さない状況である。

ハラリの論考(Financial Timesより引用)

この状況下、発表された1本の論考がある。タイトルは「コロナウイルス後の世界」、著者は「サピエンス全史」「ホモ・デウス」などの著作で知られる歴史家ユバル・ノア・ハラリである(Yuval Noah Harari, "the world after coronavirus", Financial Times, Mar 20, 2020)。日本語訳も出ている(例えば日本経済新聞電子版クーリエ・ジャポンが掲載。ハラリの訳書を出版する河出書房新社からも訳出の予定があるという)。

この論考で、ハラリは「新型コロナウイルス後の世界」をめぐる2つの対立軸を提示する。

1番目の対立軸は「全体主義的な監視社会か、市民のエンパワーメント(支援)か」。

権力側による監視の強化をハラリは警戒する。中国では、スマートフォンや街頭や屋内の至る所に設置された顔認証カメラを駆使して個人を監視し、新型コロナウイルス対策に結びつけていると伝えられている。プライバシーと引き換えに感染症から身を守れるなら、その方がいいと考える人もいるかもしれない。しかし、ハラリはプライバシーと健康を天秤にかけるのは「間違いだ」と断言するのだ。

その一方で、知識は私たちを感染症から守ってくれる。私たちが石けんで手を洗うのは「石けん警察」が監視して強制するからではなく、「石けんで手を洗うことが、感染症から身を守るのに有効である」という知識を理解しているからだ。私たちは、自由な市民である人々の理解と行動変容をエンパワーメントする方向でテクノロジーを使うべきではないだろうか? このようにハラリは問いかける。

2番目の対立軸は「国家主義的な孤立か、世界的な連帯か」。

新型コロナウイルスをめぐり、国家どうしが仲違いする懸念が高まっている。感染症拡大をおそれ国境を閉ざした国々がある。その一方で、世界的な連帯は私たちをより強くする。ハラリは、国際的な情報共有によって新型コロナウイルスへの治療法の研究は加速し、これはウイルスに立ち向かう強力な人類側の武器になると指摘する。ちなみに、ビル・ゲイツも「世界的な知識の共有で感染症に立ち向かうべき」と指摘している(Bill Gates, "How to respond to COVID-19"Feb. 28, 2020)。

二項対立のどちらを選べば良いのか、それはハラリの読者にとっては明らかだ。私たちはプライバシーが大幅に侵害される大規模監視社会に向かうのではなく、自由な個人が必要な知識を理解して新型コロナウイルスから身を守れるように、ひとりひとりの個人を支援(エンパワーメント)する社会を目指すべきだ。そして、国際社会が分断するのではなく連帯して新型コロナウイルスへの対応策を打ち出すべきなのだ。

パブリックブロックチェーンには強力な有用性がある。ブロックチェーン技術には、私たちが進むべき道に沿って、人々をエンパワーメント(支援)し、知識を共有するために活用できる可能性があるのだ。

ハラリはイスラエル人だ。ヨーロッパとイスラエルの人々にとって、プライバシー概念の背景には重大な歴史的経緯がある。ナチスによるジェノサイド(ホロコースト)では、人々を属性で選別して収容所に送り込んだ。そのために大量の台帳を処理する必要があり、IBMのパンチカード計算機が使われた(参考記事)。人々を属性で差別するための情報処理テクノロジーが警戒される背景には、このような歴史の記憶がある。

18世紀の人権思想から、世界人権宣言へ

人々のエンパワーメントと連帯は、なぜ重要なのか? この点をもう少し掘り下げてみたい。背景にあるものは、人権というアイデアだ。

2018年、早稲田大学は経済学者アマルティア・センに名誉博士学位を贈呈した。その時の記念講演会を聴講する機会があったのだが、これは私にとって忘れられない経験となった。センは「私たちは、人権、正義のアイデアをより頑健にする必要がある」と強調したのだ。

人権概念には、18世紀に登場したアメリカ独立宣言やフランス人権宣言の影響が強いと考えられている。女性の権利を訴えたフェミニストのパイオニア、メアリ・ウルストンクラフトも18世紀の人物だ。それ以来、人権の概念は深まり広がっているが、今なお完全ではない。だから私たちは、正義、人権のアイデアをより「頑健に」していく必要があるとセンは言う。そして「1948年に国際連合(国連)が採択した『世界人権宣言』が多くの道を開いた」とセンは指摘する。

この世界人権宣言のテキストは国際連合広報センターのWebサイトに日本語訳がある。だが、ここでは詩人・谷川俊太郎が訳した「世界人権宣言」を推薦したい。人権NPOのアムネスティ日本が公開しているものだ。

この谷川俊太郎訳「世界人権宣言」を読みこんでいくと、ひとつひとつの条文が、「それはそうだよなあ」と共感できるシンプルな内容であることが分かる。私たち全員に平等な自由と権利がある。差別されない権利があり、プライバシーの権利があり、思想の自由があり、表現の自由があり、集会の自由がある。人の権利が制限される場合は、他人の権利を守る目的に限られる。いたってあたりまえの話だ。これは日本国憲法が定める基本的人権とも共通する考え方でもある。

人権があたりまえの話であるなら、次に出てくる考え方はこうなる。各国の政府、国際機関、そして民間企業も含めたすべての人間の取り組みの目的とは、結局のところ、すべての人の自由と平等(人権)を守ることなのだ——。例えば私たちが税金を納めることも、自分自身を含むすべての人の権利を守るためだ。なぜなら、それ以外の理由で人権の一部である財産権を侵害される理由はないからだ。

なお、新しい経済理論である「租税貨幣論」によれば、納税/徴税の目的は貨幣価値を維持するためである。租税貨幣論と人権概念を整合させるとするなら、「貨幣には人権を守る公共性があることを社会の構成員の全員が信じ納得できる形で法定通貨システムを運用する必要がある」といえる。

もちろん、この世の中は大小さまざまな理不尽、つまり人権侵害がまだまだ横行している。公共性に関するコラム記事で触れたように、「国家は市民に優越する存在である」という、人権概念とは矛盾する封建的な考え方も根深く残っている。

人権概念は理想であって、完全には実現していない。

しかしながら、ひとりひとりは非力なためそれを実現する力がないことを承知の上で、私たちは人権概念の完全な実現を思い願うべきだといえる。これは前述のセンの講演で出てきた話題で、カントの「不完全義務」を応用した考え方だ。詳しく知りたい方にはアマルティア・セン「正義のアイデア」(明石書店、2011年)をお薦めする。私たちは、自らの非力を理由に、理想を思い願うことまで捨てさる必要はないのだ。

こう考えていくと、個人のエンパワーメントと世界の連帯を良しとし、権力による監視と国家どうしの分断を避けるべきとするハラリの主張の背後には、一本の筋が通っていることが分かる。人々の自由と平等を尊重するなら、監視も分断も避けるべきなのだ。

インターネットで監視されない権利

世界人権宣言は人権概念の基本文書といえるが、その後も人権概念は拡張され続けている。

例えば国連が掲げるSDGs(持続可能な開発目標)は、「今から2030年までに実現すべき目標」を17種類に分類したものだ。その内容は、すべての人々の権利(人権)を実現するためのアクションプランに結びつくものだ。

国連の最新の取り組みとして、世界環境憲章(Global Pact for the Environment)の策定がある。これは健全な地球環境を人権の一部と位置づけ、その保護を義務と定めるものだ。当然ながら地球温暖化対策も視野に含まれている。それだけでなく、草案を見ると未知の環境危機にも対応しうる条文となっている。環境問題とは人権問題でもあるのだ。

「インターネットの権利と原則」の表紙(IRPCより引用)

人権は普遍的な概念なので、インターネットの上でも実現されなければならない。このような考え方に沿った宣言、憲章、原則の文書がいくつか登場している。その中でも注目したいものが、国連が管轄するインターネット団体IGF(Internet Governance Forum)を拠点とするオープンなネットワークであるIRPC(Internet Rights and Principles Coalition)が公開した「インターネットの権利と原則」である。これは世界人権宣言のインターネット版と位置づけられる内容だ。

この第5条には「すべての人はオンラインでプライバシーを守る権利を持つ。 これには監視の排除、暗号化を使用する権利、およびオンライン匿名性権利が含まれる。 すべての人は、個人データの収集、保持、処理、廃棄、開示の制御を含むデータ保護の権利を有する」と記されている。匿名化技術はいわゆるダークWebの技術として否定的に語られる場合もあるが、この「インターネットの権利と原則」では匿名化技術を「人権の一部」とはっきり位置づけている。これは、権力者の監視に対抗する技術を個人が持つことの重要性を記しているといえる。

2019年、WWW(World Wide Web)の発明者であるTim Berners-Lee氏が設立したWorld Wide Web Foundationの主導により、行動指針「Contract for the Web(Webの約束)」が作られた。政府が守るべき指針3カ条、企業が守るべき指針3カ条、個人が守るべき指針3カ条を記している。

Webの約束(Contract for the Webより引用)

ここで「政府が守るべき原則」の中には、プライバシーとデータの権利を尊重し、保護することがうたわれている。インターネットを利用した大規模監視は規範に反すると釘を刺しているのである。

ブロックチェーンと匿名化技術にできること

もう一度、ハラリが提示した二項対立を思い出そう。

全体主義的な監視社会ではなく、市民のエンパワーメントを。
国家主義的な孤立ではなく、世界的な連帯へ。

最新のテクノロジーに基づくパブリックブロックチェーンと匿名化技術は、プライバシーに属する情報を秘匿して自己管理することを可能としている。その例はEnigmaである。

パブリックブロックチェーンと匿名化技術の組みあわせは、権力者や巨大企業による大量監視を許さない形で個人情報を処理するソリューションを構築するのに役立つ。感染症の予防や必要な支援を個人に届ける上でも、このような技術は有力なツールとなりうる。

そしてブロックチェーン技術と匿名化技術が提供するものは、信頼でき、なおかつプライバシーを保護できる台帳だ。これは実験、治験、検査などのデータを信頼できる形で国際的に共有するのに役に立つ(なお、サンプル数が少ない場合に匿名性が失われる「k-匿名性」の概念には配慮が必要といえる)。

私たちは、プライバシーを保った形での人々の情報の活用、信頼できる台帳の共有により、多くの可能性を切り開くことができる。ブロックチェーン技術はそのための技術だ。

パブリックブロックチェーンと匿名化技術は、新型コロナウイルス後の世界をより良くするため、そして人権、インターネットの権利を守り、Webの約束を実現するために使える技術といえるのだ。

星 暁雄

フリーランスITジャーナリスト。最近はブロックチェーン技術と暗号通貨/仮想通貨分野に物書きとして関心を持つ。書いてきた分野はUNIX、半導体、オブジェクト指向言語、Javaテクノロジー、エンタープライズシステム、Android、クラウドサービスなど。イノベーティブなテクノロジーの取材が好物。