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 前金融庁長官の氷見野良三氏が、次期日本銀行副総裁に就任することになった。氷見野氏は、2020年8月25日に東京で開催された国際会議「Blockchain Global Governance Conference(BG2C)」の閉幕に際し、Bitcoin(ビットコイン)の発明が本質的に人間社会の信頼にもたらす意義とその影響を問いかけるスピーチを行った。このスピーチは、ブロックチェーンに関わる人たちの間で大いに話題になった。

 そして2023年3月10日、米Silicon Valley Bank(シリコンバレー銀行)の破綻に端を発して、ステーブルコイン「USDC」のデペッグ(ステーブルコインが法定通貨との連動を維持できなくなること)が発生し、暗号資産とブロックチェーンのエコシステムへの疑問が改めて投げかけられている。

 あのスピーチから2年半経過した今、氷見野氏の問いかけは正しかったのか、あるいは現実は違っていたのか。このスピーチを振り返りながら、考えてみたい。

氷見野氏の伝説のスピーチ

 氷見野氏のスピーチのタイトルは”Is Satoshi’s dream still relevant today?"(サトシの夢は今日においても意義を持つか?)である。このスピーチ自体は、金融庁のホームページから英語のスクリプトがダウンロードできる。また、YouTubeチャネルからも視聴することができる。なお、このスピーチには公式の日本語訳は与えられていないものの、有志による日本語訳も存在する。

関連リンク(PDF): Is Satoshi’s dream still relevant today?

 このスピーチは、どの部分も精緻に、過不足なく流れるように練られており、どこかを切り取って要約することは適切ではないと筆者は考える(AIに要約させると、さらに良さは消えるだろう)。しかし、スピーチの全てを紹介することはスペースの都合上できないため、今回の記事の趣旨に鑑みて、氷見野氏が指摘した中で関係しそうな部分をいくつか日本語訳して紹介したい。

社会の信頼は、ブロックチェーン以前から仕事の証明(=Proof of Work)によって成り立っている。

(Bitcoinの)信頼は、大量の電力とマイナー(採掘者)が設置したマイクロチップに依存しています。これは、受け入れ難いほどの資源の無駄遣いなのでしょうか?そうかもしれません。しかし、ある種の「仕事の証明(Proof of Work)」はブロックチェーンに限らず、我々の周りのあらゆるところにあると、私は主張したいと思います。ここで、大まかにProof of Workを定義すると、それなりの地位のある真剣な人たちだけができる仕事で、その努力が疑わしいようなことに費やされることはないと他の人に信じさせるに十分な、コストのかかるプロセスのことです。そうすると、私たちの国内総生産(GDP)のかなりの部分は、すでにある種のProof of Workとして費やされていると言えます。

 こんなことを思い直してみてください。表面に精密な彫刻が印刷された大量の紙幣、エレガントなビルのおしゃれなオフィスにいる仕立てのいいスーツを身にまとったビジネスパーソン、何度も手直しされた美しくデザインされたプレゼンテーション資料、洗練されたレストランでのエンターテインメント、広告動画に登場する映画スター、スマートなカバーに包まれた奇麗に印刷された書籍、カサノバが恋人に手渡す薔薇(ばら)の花束、そして有名な大聖堂で開く結婚式。

 これらのことは、紙幣の根源的価値、ビジネス提案、宣伝された製品、書籍、愛、そして結婚の本質的価値とは何にも関係ありません。何兆トンもの二酸化炭素(CO2)が排出され、それに応じた金額のドルが費やされ、それらは信頼性や真剣さについての印象を与えるためだけにあります。従って、我々の社会において信頼を生み出すうえでの仕事の証明の役割を見直し、これらがどのように再設計できるかを考えることは、我々の社会的交流と有効性を改善する大きなポテンシャルを持っているのです。

 この部分は、なぜBitcoinが導入したProof of workが、その台帳の信頼性担保に貢献しているのかをわかりやすく解説している。

 Bitcoinの取引を記録する台帳は、世界中の大量の計算機が重複して記録することで、悪意がある利用者が一定数いても台帳を正しく更新できる仕組みである。この仕組みを機能させるには、ネットワークを飛び交う個々の取引履歴を、整合性のある形でひとまとまりの「ブロック」に組み込む役割を担う人を定める手順に対する信頼性が必要になる。

 Bitcoinでは、難しい総当たりのパズルを解いた人が、「正しい努力をした証明をした」と言うことで、ブロックの中身を決める人になる。Proof of Workベースのパーミッションレスブロックチェーンの信頼は、いくつかの異なる要素からできていて、Proof of Workだけがその要素ではない。ただProof of Workがあることで、利用者はブロックチェーンを構成する暗号を破ること(前述のスピーチにおける「疑わしいようなこと」)に労力をかけるより、単なる全数探索ではあるものの「それなりの地位のある真剣な人たちだけができる仕事」を行うことにより、他の利用者からの信頼を確立している。つまりは、従来のビジネスにおける信頼獲得をデジタル表現したものとも言えるという指摘をしている。

 また、この解説はProof of Workによる信頼構成と、その他のコンセンサスアルゴリズムによる信頼構成の違いも匂わせている。つまり、例えば2022年にEthereum(イーサリアム)が採用した「Proof of Stake」による信頼構成は、台帳を破壊する試みは自ら持っている暗号資産の価格低下を招くことから、疑わしいようなことをしない、という仮定に基づいている。一方でこの努力は、株式を保有する経営陣が株券のような有価証券の価格低下を招かないよう健全な経営に務めるといった理論と似ていて、この連載でも以前に指摘したような証券該当性の議論につながるところになる。一方Proof of Workは、その信頼構成と価格変動には直接の関係はない。この点が、米証券取引委員会(SEC)委員長のGary Gensler(ゲーリー・ゲンスラー)氏をしてBitcoinを証券とは認定できないと言わしめる源泉になっている。

 また前述の引用の3段落目に当たる箇所で氷見野氏は、Proof of Workに伴うCO2の排出に言及している。Proof of Workによる信頼の構築に対して、マイニングによる電力消費とそれに関係するCO2の排出がひんぱんにやり玉に挙がっている。しかしProof of Workを、人間社会が旧来行ってきた信頼構築プロセスのデジタル化として捉えた場合、旧来型の信頼構築でも多量のCO2を排出している点はProof of Workと変わらない。同じ信頼構築という観点に限定すればCO2排出量をもっとフェアに比較できるかもしれないことを示唆している。なお、このスピーチは、Proof of WorkによるCO2排出量がより少ない、あるいは問題ない、と言っているわけではないことには注意が必要だ。単に、より建設的な比較ができるかもしれないことの示唆である。