なぜ1万円札は「原価24円」なのにモノが買えるか説明できますか?

仮想通貨の未来とも関係がある

貨幣自体に価値はないが…

資本主義社会では、誰もが無意識に信じている拝金教という宗教がある。資本主義社会では、生活に必要な財やサービスを商品として購入しなくてはならないからだ。

商品を購入するためには貨幣が必要になる。人間と人間の間で、交換が行われる関係が、貨幣という形態に物象化するのであるが、常識的には貨幣自体が価値を持っているように見える。

冷静に考えてみよう。1万円札を刷るのにかかる費用は、年によって若干異なるが、22~24円であるという。原価が22~24円しかかかっていない1枚の札で、1万円分の商品やサービスを購入することができる背景には、貨幣に対する信用があるからだ。これを貨幣教と言い換えることもできると思う。

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それでは、人為的に貨幣を作ることが出来るのであろうか。これについては、肯定論と否定論がある。肯定論者は、ブロックチェーン技術を使えば、仮想通貨を作ることができると主張する。しかし、この見方は、恐らく間違っている。

筆者の貨幣観に大きな影響を与えたのは、ユニークなマルクス経済学者の宇野弘蔵(1897~1977年)だ。

マルクス経済学者というと、共産主義者であるという印象が一般的だが、宇野はそうではない。宇野は、マルクス『資本論』の理論を継承する者という意味でマルクス経済学者という言葉を使っており、共産主義イデオロギーによって、『資本論』を革命の書として読む人たちをマルクス主義経済学者と呼んで区別している。

宇野は、『資本論』の内容であっても、論理性が崩れている箇所については、修正すべきであると考える。その主張を初めて展開したのが1947年に河出書房から上梓された『価値論』だ。その後、青木書店から出た版が長らく読まれていたが(筆者も学生時代にこの版を読んだ)、現在はこぶし書房から復刊されている。

商品の交換を円滑に行うためには貨幣が不可欠だ。

〈貨幣による商品の購買は、その商品の販売者をしてふたたびまた同じ貨幣による商品の購買を可能ならしめる手段をあたえる。商品はつねに流通から消費にはいってゆくにすぎないが、その価値は、貨幣として運動を継続してゆく〉

貨幣自体は、現象的には、使用価値(米ならば食べる、ボールペンならば書くなどの具体的な有用性、主流派経済学の財に似た概念)を持たない。貨幣があれば、それは任意の商品に交換できるが、商品が貨幣に交換できるという保証はない。ここから人間が作り出した貨幣が、特別の力を持つという観念を生み出すようになる。

〈元来、貨幣としての価値は、(中略)実質的な貨幣商品としての価値になにものをもくわえるものではないが、形態的にその使用価値からの独立をあたえられることにその意義があった。したがってそれは、何人の労働によって付加せられたる新たなる価値をも有するものではない。商品流通の内部における社会的機能によって規定せられたるものにすぎない。

 

しかし貨幣による価値の独立化は、貨幣の所有にこの社会的機能を独占せしめることになる。社会的に形成せられたるものが私人の手にあってその個人的な権力として現われる。それはいつでも社会的労働の生産物を自由に処分しうるものとして私人の手にゆだねるものとなるのである〉。

「金」が裏付けになる理由

貨幣は、モノであるにもかかわらず神のような力を持つ。これが貨幣の物神性だ。そうなると貨幣を使わずに蓄えておくと、そのこと自体が力になるという現象が生まれてくる。こういう目的で用いられる貨幣を蓄蔵貨幣と呼ぶ。

〈貨幣の蓄蔵はそれ自身として行なわれるかぎりその限界に突きあたらざるをえない。「ブルジョア社会の進歩につれて、独立の致富形態としての貨幣蓄蔵は消滅するが、支払手段の準備金たる形態においての貨幣蓄蔵は反対に増大する」というのも当然である。

しかしかくのごとく「支払手段の準備金たる形態においての貨幣蓄蔵」という場合には、すでに価値の独立化したものとしての貨幣は、明らかに需要、供給の対象となっている。マルクスのいわゆる世界貨幣はかかる貨幣を具体的に指示するものにほかならない〉

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