5年前に仮想通貨にのめり込んで以降、「イーサリアム」と「カルダノ」という、世界で十指に入る、2つの仮想通貨の立ち上げに携わった30歳の起業家がいる。アメリカのコロラド州出身のチャールズ・ホスキンソンだ。
仮想通貨の普及のため世界中を飛び回り、この5年間に旅した国は63カ国にのぼる。過剰なスピードで膨れ上がった仮想通貨を地で行くように、チャールズはこの5年間を駆け抜けてきた。
エチオピアで、ブロックチェーンについて語るチャールズ・ホスキンソン。
ハワイで生まれ、コロラドで育った。祖父と父、兄はいずれも医師だ。
コンピューターに初めて触れたのは、6歳か7歳のころだ。自宅にあったパソコンは、家族みんなのものだったが、一番長くパソコンにかじりついていたのは、チャールズだった。ゲームで遊び、ほどなく、プログラムも書くようになった。
16歳で大学に進み、数学を学んだ。医学は選ばなかった。
「医大に行ったら次は研修医。すべてがあらかじめ決められているようで。物事の根本に戻っていくような数学は、ぼくにとって魅力だった」と話す。
研究者としてのキャリアも意識しないではなかったが、結果として、その道を選ばなかった。「大学院に行き、博士課程を修了して、おもしろい事ができるようになるまで、10年かかる。それだと飽きてしまう」と思った。
大学を卒業してからはしばらく、ソフトウェアの開発者や、コンサルタントの仕事をした。合間に、関心のあった金融政策や通貨に関する書籍も読み込んだ。
エチオピアで開かれたブロックチェーンのイベント。
2008年10月、サトシ・ナカモトを名乗る人物が、暗号をテーマとするインターネットのメーリング・リストに一通の論文を投稿した。この論文が、ビットコインのはじまりとされている。
チャールズは2010年ごろ、サトシの論文を読んだという。
「概念としては完璧だし、本当におもしろいアイデアだとは思ったけど、絶対に機能しないと思った。だって、通貨にはみんなの思い込みが必要だから」と話す。
人は仕事をしておカネを得るが、みんなが受け取るおカネに価値があると信じていなければ、買い物もできず、仕事に費やした労力も無駄になる。
「みんながおカネを信じているからこそ、おカネには価値があるんだ」
2013年、ビットコインを取り巻く状況に大きな変化が訪れる。地中海の小国キプロスの金融危機だ。経済の混乱で、銀行の預金口座が封鎖されたことで、政府の権限の及ばない新しい通貨として、ビットコインに注目が集まった。
「ファンドやベンチャーキャピタルまで、ビットコインの存在を真剣に受け止めはじめた。そこで、自分もなにかできないか考えるようになった」
チャールズは、インターネットで学習できるプラットフォームUdemyで、仮想通貨についての講義を始めた。彼の講義は、いまもUdemyで閲覧でき、これまでに8万人以上が受講したと記録されている。
そのころ、「ちょっと道に迷っていた」と感じていたチャールズに、転機が訪れる。きっかけは、Udemyだった。
生徒の1人に中国人の著名投資家がいた。この投資家がチャールズに言った。
「きみのスタイルが気に入った。きみは、すごい起業家になるよ。50万ドルあげるから、なにかはじめなさい」
チャールズは「そんなのクレイジーだ。あなたの金がなくなるだけだ」と懐疑的だったが、投資家は「わかった。わかった。きみはすごい起業家になるよ」と耳を貸さない。
2013年7月、中央に管理者のいない分散型の取引所などを柱としたプラットフォーム、ビットシェアズ(Bitshares)を立ち上げることを目指し、プログラマーのダニエル・ラリマーとともに、インヴィクタス・イノベーションズ社を立ち上げた。
しかし、次第に共同創業者間のけんかが絶えなくなり、チャールズは4カ月で最初のプロジェクトを離れた。
2013年の年末、チャールズは、1994年生まれのヴィタリック・ブテリンが書いたイーサリアムのホワイトペーパー(事業計画書に相当)を目にする。
ヴィタリックが考案したイーサリアムは、のちに、さまざまな契約を自動化するスマートコントラクトのプラットフォームとして世界中に知られるようになり、仮想通貨としてもビットコインに次ぐ規模に育った。
2014年1月、アメリカのマイアミで開かれたカンファレンスでの、ヴィタリックのプレゼンテーションが、チャールズの記憶に焼き付いている。
ヴィタリックがプレゼンをはじめたとき、会場は半分ほど埋まっていた。プレゼンが進むにつれ、次第に聴衆が増え、20分後には会場が埋まった。
「何か質問がありますか」と投げかけると、ほぼ全員が一斉に手を上げたという。5分ほどの質疑が終わると、聴衆はヴィタリックを追いかけ、会場からは人がいなくなった。
その夜、ヴィタリックやチャールズらは話し合った。
「これは本当にすごい。大きな事ができるよ」
チャールズらがビジネスの構築を担い、ヴィタリックらは技術面に専念することになった。
イスラエルのテルアビブで開かれたイベントでプレゼンテーションするチャールズ・ホスキンソン。
しかし、いい時期は長くは続かなかった。ここでも方針をめぐって、創業メンバーたちの争いが繰り返される。チャールズは2014年5月、イーサリアムを離れた。立ち上げに加わってから、わずか半年後のことだった。
チャールズが次に向かったのは、大阪だった。大阪には、イーサリアムで一緒に仕事をしたジェレミー・ウッドが暮らしていた。2014年の年末から2015年の年始にかけて、チャールズとジェレミーは、大阪のまちをぶらぶらしながら、ビジネスアイデアを話し合った。
2人が2015年3月に立ち上げた新しい会社が、IOHK(Input Output Hong Kong)だ。ブロックチェーンのプラットフォーム・カルダノと、仮想通貨ADA(エイダ)の研究と開発を続けている。
実際にプロダクトが完成するまでは、苦労の連続だった。ネット上には、たびたび「詐欺コイン」との悪評が飛び交った。「2017はぼくにとって最悪の年だった。コミュニティ、研究者、開発者のマネジメントをしたけど、いつもだれかが怒っていた」と振り返る。
けれど、チャールズは悪評に耐えた。
「イーサリアムもはじめたころは、機能しないだとか、詐欺だとばかり言われていたからね」
2017年9月にカルダノをリリース。カルダノ上で取引されるADAは、仮想通貨全体で6、7番目の規模に成長した。
イスラエルのテルアビブで開かれたIOHKのイベントは、会場が埋まった。
カルダノを立ち上げて以降、チャールズは世界中を回って、会議に出席し、多くの人に会い、ブロックチェーンについてのレクチャーを重ねてきた。2018年4月下旬から5月上旬には、イスラエル、エチオピア、ルワンダなどを回った。世界を飛び回るのは、「信頼を築くには、実際に向き合うことが必要だ」と考えているからだ。
ネット上には、批判も書き込まれているが、ビットコインに出合って以降の5年間で、チャールズが多くの事を形にしてきたのも事実だ。
「なにかをしようと思う人は、とにかく続けてほしい。必ず道はある。ひどい批判にもさらされるけど、正直に。なにか問題があるときは、みんなに、こんな問題があるんだと伝えればいい」
20代後半を高速で駆け抜けてきた代わりだろうか、この5年で体重が25キロ増えた。彼の風貌は、30歳にしてはかなり、貫禄がある。(本文敬称略)
(文と写真:小島寛明)